偉大な父を持った諏訪四郎、課された悲劇
武田勝頼 ❶諏訪四郎 勝頼は信玄の庶子として生まれ、武田ではなく母型の諏訪の姓を名乗っておりました。武田の正嫡が死亡したことにより武田に養子に入ります。諏訪氏は武田が滅ぼした敵方だった事から、家臣には快く思われていなかったとされています。 ❷高天神城 信玄亡き後、先代が育てた家臣団を引き継いだ勝頼ですが、自分よりも実績のある家臣を収めるのには苦労しました。しかし、父である信玄が落とせなかった徳川の城高天神城を陥落させることに成功した勝頼は自信を深め、より名が響くような成績を求め長篠・設楽原の合戦では無謀とも取れる戦術に移行していったと言われております。 ❸長篠・設楽原の合戦 長篠・設楽原の合戦は時代を変えた戦いであります。歴史史上初めて鉄砲隊が活躍した戦いとして、それまでの騎馬の時代を終わらせた象徴的な戦いであります。この時、武田にも鉄砲はありましたが、それを使う火薬はなかなか手に入りませんでした。堺を収めた織田信長の助力を借りて徳川家康が勝ったこの戦い、本当なら設楽原にて織田・徳川を迎え撃つのではなく、撤退をする必要があったのは医王寺で行われた軍議で突撃を進言した家臣が一人しかいなく、多くの古参の武将が撤退を申し入れそれを勝頼が押し切ったことで、死を意識しました。大通寺ではその別れを詠った水杯の井戸があります。 ❹その後領土を広げる 勝頼は長篠・設楽原での敗退以降、甲斐で体勢を立て直します。そして長年の宿敵であった上杉と和睦を結ぶことに成功します。それ以後均衡を保ちながらなんとか領土を守っていた勝頼ですが、上杉謙信が急死します。それにより起こった上杉家の家督争いが始まると北条と上杉の板挟みにあいます。然しながら、その時北信濃だけでなく国境を越えて越後の一部までを領土に組み入れることになります。 ❺辞世の句 1582年、織田軍が甲州征伐を始めると、家臣の離反が相次ぎます、そのような中でも真田昌幸らの岩櫃城にて立て直しを図るが、時を同じくして岩櫃城近くの浅間山が噴火したこともあり小山田信茂が納める岩殿城に身を寄せることになった、しかし小田山が織田に離反したことから行き場を失い最後に天目山にて自害したと言われております。 その時詠んだ辞世の句が「朧(おぼろ)なる 月のほのかに 雲かすみ 晴て行衛(ゆくえ)の 西の山の端(は)」勝頼の最後は諸説残っておりますが最後までついて来た家来の多くは、諏訪衆であり、最後まで諏訪四郎の無念を感じます。