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武田二十四将

武田二十四将

武田二十四将

武田を支えた戦国武将、多くを長篠・設楽原の合戦で亡くす。

❶馬場信房(四天王)信虎、信玄、勝頼と三代に渡り武田に仕えた重鎮。美濃国土岐郡の土岐一族の流れで、美濃守、鬼美濃などと称される。長篠・設楽原の戦いでは武田軍右翼で700人で配属佐久間勢6千人と対峙する。最後まで戦線を維持し殿(しんがり)を務め、寒狭川沿い出沢の急傾斜地で追っ手をふさぎ、勝頼が見えなくなるのを見て討ち取られたと言います。
❷山縣昌景(四天王)武田の赤備えして有名、それは騎馬隊の象徴でもある。長篠・設楽原では武田軍左翼の中核を担い味方の撤退を助け戦線を維持しているときに鉄砲に討ち取られた。また、その際に敵側に大将の首を渡さんとして、従事が首を持ち帰ったのが、志村又左衛門と言い、志村けん(コメディアン)のご先祖である。
❸内藤昌豊(四天王)長篠・設楽原の戦いでは、左翼に配置され織田本隊と対峙した。また本田忠勝と戦ったとされ、勝頼撤退の際に踏みとどまり戦死。
❹土屋政次 三方原の戦いでは徳川16神将に数えられる鳥居忠広と一騎打ちをし討ち取り武名を挙げる。右翼の天神山から出撃、織田勢の三重柵の二重目まではたどり継ぐが一斉射撃にあい戦死。
❺三枝守友 鳶が須山砦を中心とした5砦を守る部隊に配属され、酒井忠次らの奇襲にあう、姥が懐砦を守るが他の砦が落ちる中増える敵の前に戦死。
❻真田信綱 真田一族として常に尖峰として出陣し長篠・設楽原の戦いにおいても馬防柵までたどり着くが、銃撃により死亡。なお、その首を敵方にとられまいと家来により甲斐に持ち帰られ他その時包んだ「血染めの陣羽織」が上田市の信綱寺に収蔵されている。
❼原昌胤 設楽原への進軍を反対し、甲斐への撤退を主張したことで有名。戦場にて戦死。
❽武田信兼(生還)山縣隊と二番を攻撃をする。生還後甲斐討伐で勝頼自害の後、残党狩りにあい死亡。
❾一条信龍(生還)佐久間勢を攻撃し、3重の柵の2番目までを破る。友軍の敗走を助けるために馬場信房と戦場に留まり最後に撤退した。甲州征伐で徳川勢1万に対し3百の手勢で突撃し討死。
❿小山田信茂(生還)長篠・設楽原では勝頼の身辺を警護し生還、しかし織田の甲斐征伐では追われる武田勝頼を見捨て離反した。
⓫穴山信君(戦線離脱)甲斐武田氏の家臣であり、武田の生を許される身分であった。それ故勝頼が家督を継いだことに快く思わず、設楽原の合戦でも早々に離脱した、その後、織田信長、徳川家康と内通し家康は武田の相続人として織田の許しを得る様に京都に足を運んだところで「本能寺の変」が起こり、徳川家康と間違われて暗殺された。
⓬高坂昌信(四天王)信玄の時代からの古参、敗退する勝頼を信濃駒場で出迎え、戦後処理をした。その際には戦線離脱した穴山信君の切腹を申し立てた。
⓭大通寺の盃井戸 実に四天王のうち、馬場信房、山縣昌景、内藤昌豊らは長篠・設楽原の合戦で討死してます。決戦の前日、軍議で設楽原に打って出る事が決まった夜に、馬場信房、山縣昌景、土屋昌次が長篠城横の大通寺で同じ井戸から汲んだ水で盃を交わし、死期を感じながらも最後まで武田に忠義をささげる事を約束したとされています。
⓮長篠・設楽原の合戦に参加した12名の内実に7名の戦死者を出します。生存者も5名の内穴山信君は早々と戦線離脱して高坂昌信は甲斐の国を守っています。

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