不遇を耐え、飛躍の糧とした若き日々
❶1543年 12月26日松平広忠と於大の方の嫡男として岡崎城で誕生
❷1543年 松平弘忠は、今川義元の庇護を受けて、岡崎城を織田方より取り戻す。竹千代の母親於大の方は、在所が織田方刈谷の水野信元であったため、松平広忠と離別することになる。竹千代(家康公)3歳
❸1547年 織田信秀の三河侵攻に対して、今川家に助けてもらった見返りに竹千代(家康公)を今川に人質に出すことを約束される。竹千代(家康公)6歳
❹1547年 8月2日竹千代が駿河に向かう途中、田原城主戸田康光が織田家の意向を汲んで竹千代を誘拐し、織田家に引き渡す。
❺1549年 竹千代(家康公)の父松平広忠が死去すると今川義元は、すぐに岡崎城を接収させ、松平の重臣用紙を駿府に呼び寄せる。
❻1549年 11月今川義元は、織田信元の安祥城を攻めて、織田信広を生け捕りにし竹千代(家康公)との交換を織田に提示し受け入れられる。
❼1550年 父松平広忠が亡くなり、岡崎城も今川に抑えられた状態で「城無し子」と揶揄されながらも、自分を待つ三河家臣団を信じて12年間駿府の今川方で過ごす。
❽今川の家臣として桶狭間の戦いに参戦するが、大将である今川義元が織田に打ち取られたことにより、岡崎城に戻る。(落ち武者狩り、今川の勢、織田の勢、そして自分を受け入れてくれるかわからない三河の人々に怯えながら、松平の菩提寺(大樹寺)に逃げ込む
❾清州同盟を結ぶことにより、織田の盾として武田と対峙することで、三方原の戦い、高天神城の戦い、長篠・設楽原の戦い等の危機を迎えながらも同盟を守りぬく
❿武田勝頼の自害により武田滅亡、その6か月後、本能寺の変により織田自害、織田方とみられた家康公は明智から追われ、伊賀を超えてて岡崎に逃げ帰る。(のちに神君伊賀越えといわれる)