山家三人衆は田峯菅沼氏の進出の拠点
大谷城は田峯の菅沼氏が山間部から平野部への進出を図る為に築いた城で、その時の当主菅沼定忠は嫡子菅沼定継を「平井の大谷城」に配置しました。その後、天文元年(1532)幽玄川の西に城を築き、これを上平井の大谷城に対して新城(シンジョウ)と呼ばせました。新城の街の発祥とも言われ、長篠の役の後、長篠城主奥平信昌が入船に築いた「新城城(シンシロジョウ)」に対して区別する為「新城古城(シンシロコジョウ)」とも呼ばれています。