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酒井忠次
酒井忠次
徳川四天皇の1人、鳶ヶ巣山攻略の発案者
❶徳川四天王の1人、家康公の父宏忠から松平に使える譜代家臣❷竹千代(後の家康公)が今川義元への人質として駿府に赴く時も同行した(忠次23歳の頃) ❸永禄3年(1560)5月の桶狭間の戦いの後、徳川家の家老となり、三河一向一揆でも家康に従い、忠義を貫いた。 ❹ 1564年吉田城(豊橋)攻め出先鋒を務め、無血開城の戦功を認められ同城の城主となる ❺長篠・設楽原の合戦で極楽寺山で行われた軍議において鳶ヶ巣山奇襲の作戦を発案したが、信長から「そのような小細工は用いるにあらず」と頭ごなしに罵倒されたが、軍議が終わった後、信長に密かに呼び出され「先ほどは、作戦の情報が武田方に漏れる恐れがあった故、わざと却下したが、理に適った最善の作戦、指揮は任せる。」と言われ鉄砲500挺を預かり、鳶ヶ巣山奇襲の指揮をとった。 ❻天正7年(1579)家康の嫡子・松平信康の謀反を織田信長に詰問される。その時に十分に弁護できず、信康の切腹を防げなかったと言われています。 ❼元亀4年(1573)武田家から「松枯れて竹たぐひなき明日かな(松平は枯れて武田は類ないようになる将来だ)」と詠んだ句が送られてきた。それに対し忠次はその句の濁点を入れ替えて「松枯れで竹だくびなき明日かな(松平は枯れず武田は首がない将来だ)」と返した。この事から正月には門松の竹を斜めに切り落とすのが習慣になった。 ❽海老すくいという踊りが得意で、度々披露している。大正14年(1586)家康が北条氏政と同盟を結ぶための宴でも披露している。