甲斐の虎、徳川家康を震え上がらせた親方
❶甲斐源氏の嫡流、武田の16代当主であり、甲斐武田家19代当主、兄弟の死亡と父を追放することで家督を相続しました。それは歴史ある家系で家来の多い組織を受け継いだことを意味します。
❷信玄堤と一向宗、まず一向宗とは、浄土真宗を信じる人達の集まりです。その中には農民だけでなく、武士もいました。その創始者親鸞聖人が「一向専念無量寿仏」と唱えていたことから一向宗と言われております。その宗主に蓮如がなった時に加賀の富樫氏と手を組み越前守護になります。しかしその後、一向宗を弾圧したことから一揆が起こります。それが一向一揆の始まりとされます。その様な一向宗ですが、上杉謙信や徳川家康、織田信長等、不況に敵対的な関係も多い中で武田信玄とは友好的な関係を築いていました。その一端が信玄堤とも言われ、一向宗が栄えた場所は、治水事業が進んでいたとされています。これは仏教が布教と共に土木事業の技術も提供していた例としてよく取り上げられます。
❸信玄を語るとき「負け知らずの武将」であると表現されることがあります。勝ち続けるのではなく、負ける戦はしない「分析能力」が高かったのだと言われております。その一例として父親の代と変わり、信玄に家督が移った時から南の今川義元、東の北条氏康らと同盟を結び、北の信濃に侵攻します。信濃、諏訪、伊那と平定をしたところで村上義清と戦うことになり、初めて負け戦を経験しますが、その後、村上を破ることになるのですが、その村上が越後に助けを求めた事から川中島の戦いが始まります。川中島の戦いも5期にまで渡りますが、これは引き分けとして負けない武将として部下を大事に戦っていた事が分かります。
❹勢力の上限なのか?上杉謙信に悩まされていた武田信玄ですが、その時今川義元が織田信長に倒れる「桶狭間の戦い」があります。これを機に信玄は同盟を破棄し今川を攻め込むことにします。そして攻め込まれた今川、それに協力した北条らから塩を買う事が出来なくなった武田は、今度は上杉から塩を買うことになります。これが有名な「敵に塩をおくる」と言うやつですね。しかし、今川とも和議を結び、今度は遠江・三河へと侵攻します。然しこの時、吐血したことから甲斐に帰還します。そして人生の最後を見据えて西上作戦として三河を攻め落としすべく動き出します。
❺西上作戦は、既に吐血等の病気に侵されていた信玄が天下取りの最後のチャンスとして用意したものだとされています。しかし、もう一方では、金山での収入がなくなりつつあった武田が領土拡大し新しい資金源を確保するためにしかたなく打って出たとされてもいます。三河には津具と言う場所に金山があり、そこを手にするべく動いたともいわれております。しかし金はほとんど採れずに銅がほとんどではなかったかとも言われております。しかし、港をもたない武田が鉄砲の玉を確保するにもそのような資源は必要であり、武田の懐事情を感じてしまうエピソードでもあります。また、野田城攻略では甲斐の金堀宗らに横穴を掘らせ、野田城の井戸を切り開場へと結びつけたとされています。